今更よりもい論(5)「玉木マリ論」
1年経っても色褪せない不朽の名作「宇宙よりも遠い場所」を味わい尽くす今更よりもい論
第五回目はもうひとりの主人公に焦点を当てて書いていこうと思います。
今回紹介するキャラは「玉木マリ」
キャラの画像等は公式サイトを見てください。
多々良西高校に通う高校2年生。相性は苗字の最後と名前を組み合わせた「キマリ」。好奇心が強く新しいことを始めてみたいと思っているが、失敗することを恐れて踏み出せないでいる。
2002年3月18日生まれ(うお座)。身長155cm。血液型はO型。好きなものは「プリン、オムレツ、たまご料理全般」というキャラクターです。
お品書き
1,実はスーパー万能ヒロインの素質あり?
2,無能感との戦い
3,コミュ力とは何か
《キマリ論1,実はスーパー万能ヒロインの素質あり?》
けいおん!の平沢唯、ばくおん!!の佐倉羽音、ラブライブ!の高坂穂乃果etc...。天真爛漫で、感情の起伏が表情に出やすく、深い考えよりも感情の赴くままに発言し行動する。周りとはテンポがずれてて天然ボケで、でもそれがむしろ周りを笑顔にする。近年の日常系とかCGDCTアニメの主人公はみな似たようなパーソナリティの持ち主です。
玉木マリも一見すると似たようなタイプかと思いきやその内側には全く違う一面を持っています。それがわかるのは1話冒頭。「澱んだ水が溜まっている」で始まるモノローグです。アニメが主人公のモノローグで始まる作品は数多くありますが、キマリの語りはかなり抽象的というか詩的な印象を受けます。改めて見てみると
よどんだ水が溜まっている
それが一気に流れていくのが好きだった
決壊し解放され走り出す
澱みの中で蓄えた力が爆発してすべてが動き出す
という文面になっているわけです。どうですか。なんとなく文学的な匂いすら感じてきませんか。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。」
「禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。」
「おい地獄さ行ぐんだで!」
「澱んだ水が溜まっている。」
こう並べてみてもひとつだけテレビアニメの冒頭が混じっているようにはみえないでしょう。
アニメでよくありがちなモノローグである、私はどのような人間で、この世界はどういう設定で、これから何が始まりますよという紹介文ではなく、主人公が自分を取り巻く世界をどう見ているのか、どのような問題意識を抱えているのかに焦点を当てた表現になっているからだと思います。
このキマリという主人公は、見た目や雰囲気に反して言語能力に優れた子です。自らをコンパサーと称したり、観測隊員の前で堂々と自己紹介したり、船酔いで沈むメンバーを「自分で選択してここにいるのだ」と奮い立たせたりしてその能力を発揮してきました。8話の流氷を発見した際にもモノローグが流れますが、これもまた叙情的です。
「友達ってたぶんひらがな一文字だ」
「私達はもう私達だから」
のような自らの体験から滲みでた珠玉の名言も多く、日向よりもむしろ名言メーカーとしての質は高いくらいだとも言えます。(ちなみに私が一押しするキマリの名台詞は「自分の家に匂いがあること」です。)
しかしこのキャラクターは同時に友情を理解できない結月や自らそれを手放そうとする親友に対しては涙と抱擁で応えるなど、感情を前面に押し出した行動をとることも少なくありません。感性や感受性という面でも優れているのです。言語も感受性も豊かな少女はしかし、人生経験の浅さ、知識の薄さなどからその能力が高く見られることはありません。いつもだれかに「本当に大丈夫か」と心配されているような少女です。
本来ならスーパー万能ヒロインになれそうなのにそんな風に見てもらえないキマリ。
《キマリ論2,無能感との戦い》
上でCGDCTの例としてあげた3つのアニメ。主人公が天真爛漫ということ以外にもう一つ大きな共通点があります。それは頼れる妹、もしくは幼馴染がいることです。もちろんキマリにも例に漏れず頼れる妹と親友がいます。彼ら(彼女ら)は主人公がどれだけ素っ頓狂なことを言い出そうとも、どんなドジを踏もうとも「しょうがないなぁ」と言いながら付き合ってくれて尻拭いまでしてくれます。主人公は「さすが〇〇は頼りになるなぁ」というようなことを言いながらその厚意に甘えます。アニメはあくまで創作物なのでそれでいいし、見ている側も変化球など要求していません。
しかしこれが現実だとどうなるでしょう。一見、美しい友情や姉妹愛に見えるかもしれませんが、この関係は実に危険な関係です。なぜならこういった関係は上下関係をはっきりさせてしまうものであると同時に下克上が起こりにくい関係だからです。上位にたっている側はもちろん善意で主人公を助けます。主人公も100%の善意だと理解しているのでその手助けを拒むことはありません。そうしているうちに助けられている側には「〇〇がいないと何もできない」,助けている側には「私がいないとアイツはダメになる」という勝手な刷り込みが行われていきます。そして行き着く先は自分が自分の意思では何も決められないという「無能感」です。
これは親子関係なら多少過干渉ぎみの親であっても、二次性徴と同時にくる反抗期によって「お前(親)の言いなりになんてならない」「俺は俺だ、ほっといてくれ」となるのですが親友というポジションではそうもいきません。本当は自分でやってみたいのに親友が無理だと言って手を貸してくれる以上その手を振り払うことなどできません。そうやって少しずつ溜まった無能感はやがてその人を臆病にし、守られたバリアの中から出ることができない人間へと変えていきます。
その危険性を敏感に察知したのが我らが主人公玉木マリでした。彼女はめぐっちゃんの世話になり続けることを拒み、自分を苛んでいる無能感と戦う決意をしました。めぐっちゃんにも母親にも頼らず世界の端までいくという大冒険です。傍目には報瀬の計画にちゃっかり乗っかっただけに見える冒険も、本人からすればかなりの決断だったに違いありません。その決断の強さは「5話以前にめぐっちゃんを南極に誘う描写がないこと」に表れていると思います。そして彼女は新しい世界を手に入れました。三人の新しい友人と見たこともなかった景色。それらはまさに澱んだ水が決壊し流れていくような勢いで彼女を急成長させていきます。彼女が主人公としての力に目覚めたとき親友に頼ってばかりだった今までとは違い周りを助けるような素晴らしい力を発揮することになるのです。
《キマリ論3,コミュ力とは何か》
キマリのもっとも優れた能力の一つにコミュニケーション能力というものがあります。単に誰とでも仲良くなれるとか目上の人間に物怖じせずに話せるとかいう大学生が就活でアピールしがちな勘違いコミュ力とは全く違う本物のコミュニケーションの能力です。
自分の意見をはっきり言えるのは当然として、相手のことを慮って今何が必要なのか、今言うべきなのかを考える能力、さらにいうとあえてコミュニケーションを取らない能力も含めて本来はコミュ力といいます。
キマリはこの辺のわきまえ方が非常にうまい印象があります。そもそもキマリが中心にないなければ四人は集まらなかったわけですしね。10話の結月の個室での会話からわかるようにキマリはLINEの向こう側にいる人間の顔も常に想像し既読が付いたのに返事がないことも否定的にはとらえません。11話ラストでの報瀬が言葉に詰まったときに咄嗟に助け舟をだしたのもキマリで、見事に報瀬の言葉を代弁してみせました。
こういったキマリの相手の立場にたてる能力もきっとめぐっちゃんと二人きりだった澱みの中でゆっくりと醸成されていたものなんでしょうね。もしくはあの幸せそうな家庭で培われたものでしょうか。キマリは自分を閉じ込めてようとしていためぐっちゃんに対しても、それ以外の人達に対してもとにかく否定的なことを口にしません。キマリは本質的に人とコミュニケーションをとることが好きで、人の気持ちを考えることが苦にならないんでしょう。
マーク・トゥエインは人間関係についてこんな言葉を残しています。「彼は人を好きになることが好きだった。それゆえ人々は彼を好きになった。」と。おそらくコミュ力の正体とはこういった能力を指すのではないでしょうか。
キマリは時として、相手に合わせるだけでなく自分の意見をはっきり主張することもあります。船酔いのシーンでの「選んだんだよ、自分で」の発言もそうですし、12話の「よくない!」のシーンもそうです。どちらも報瀬がすこし良くない方へ進んでいるときの発言ですね。ヤケクソ気味に「強くなるしかない」と発言したり、「もういい」と自分に言い聞かせるように呟き、母親との再会を諦めようとしていたり、報瀬自身も気づかないこういった小さなSOSにキマリはしっかり反応します。結月への二回の抱擁や、めぐっちゃんへの「絶交無効」も同類でしょう。
「困っていると知りながら助けを求められるのを待っている人間は、助けを断るのと同じくらい冷酷である」とはフィレンツェの詩人ダンテの言葉です。もちろんキマリはダンテなんて知らないでしょうから半ば本能のように動いているのでしょうが、自然とこういうことができるというのがキマリの潜在能力の高さを物語っています。そしてこの能力はキマリの周りに人を集め、今度はキマリを助けてくれる力となります。「なにかをはじめてみたい」という彼女の願いは彼女の周りに集まった多くの人の助けで、「南極への大冒険」にまで発展しました。みんなをひっぱるリーダーにはなれなかったかもしれませんがやっぱりキマリが主人公なんですね。